滋賀のくすりの歴史
日本の真ん中、琵琶湖のある近江、滋賀のくすりの歴史は
遥か古代にさかのぼります ——
古代〜
「滋賀のくすり」のはじまり
古代飛鳥の時代、額田王が大海人皇子に送った有名な万葉集の一節が、蒲生野(東近江市船岡山)に建つ石碑に刻まれています。
668年、この蒲生野で行われていた「くすりがり」の時に詠まれたものと云われており、これが滋賀県における最古の薬に関する記録と云われています。
「くすりがり」とは?
5月5日に行われていた日本古代の習俗です。女性は薬草を摘み、男性は薬効がある若鹿の角を取る狩をしました。
薬草の産地・伊吹山
滋賀県は、昔から薬草の種類が豊富で、薬草栽培に適した自然環境に恵まれていました。
織田信長公は薬草の産地として有名な伊吹山に目をつけ、ポルトガルの宣教師に命じて薬草園を開きました。
中世〜
甲賀忍者とくすり(甲賀売薬)
甲賀流忍術の極意書「万川集海(ばんせんしゅうかい)」には、忍者たちが薬草を育て、独自で加工し様々な生薬を生み出していたことが記されています。
そして、山伏や修験者がお札や加持祈祷とともに全国にくすりを広め、忍びと云われる者は、町人や商人になり諸国を渡り歩きながら、独自で開発した常備薬や護身薬を旅先で売って歩いたと云われています。
こうして、全国の情報を収集し、くすり創りにもたけ、火薬も取り扱う者(当時のハイテク集団)が後世には「忍者」と呼ばれたものと云われています。
忍術の伝書「万川集海」には忍薬として飢渇丸・水渇丸のほか、敵をねむらせる薬、ねむ気をさます薬、敵を痴呆状態におとし入れる薬などが掲げられています。
忍術屋敷で有名な望月本実家には「朝熊の万金丹」などのくすりの記録が残っているよ。
滋賀のくすりは、
近江商人と共に発展します ——
江戸〜
旅人の道中薬(街道売薬)
「和中散」は、暑気もたれに効くとされた粉薬で、東海道の草津宿で旅人に販売されました。「和中散」という名は、徳川家康が腹痛を起こしたとき、この薬を献じたところ、たちまち治ったので、家康から直々に付けられた名前といいます。
「有川赤玉神教丸」は、丸薬の胃腸薬で、中山道の彦根鳥居本宿で、参勤交代の大名や旅人の道中薬として売り出され、十返舎一九の「道中膝栗毛」にも「もろもろの病いの毒を消すとかや この赤玉も 珊瑚朱の色」などと詠まれています。
近江商人とくすり(日野売薬)
日野の薬業の歴史は、日野売薬の創始者初代正野玄三に始まります。
正野家では、「万病感応丸」が創られ、大勢の近江商人たちが道中薬として持ち歩き、その効能が話題を呼び、主要な取扱商品となって全国に広まりました。
近江商人たちの道中薬の効能が話題を呼び、全国に広まったんだね。
明治〜
甲賀町の配置売薬のおこり
江戸末期に農閑期の副業として営んでいた売薬の将来性に着目し、渡辺詮吾が岡山県北部に行商、その後当時の「テリアカ」の処方の伝授を受けて製造販売しました。これが甲賀売薬の起こりです。(甲賀町史)
配置売薬の発展
配置売薬は、明治24年の近江製剤株式会社を皮切りに、売薬神農会、近江売薬株式会社などが設立され、明治末年には製剤業者51戸、売薬営業者110戸、行商をするものは400余名に達しました。
大正期に入ると更に盛んになり、昭和31年には組織が「滋賀県薬業協同組合」にまとめられ、設備の近代化が進みました。滋賀県の家庭薬工業は富山、奈良、と並んで三大配置薬県として発展しました。
滋賀県は、富山・奈良と並んで三大配置薬県として発展したよ。
「滋賀のくすり」の近代化
戦後の昭和23年に旧薬事法が公布され、国民医療の充実のため、多くの製薬会社が設立されました。昭和40年代以降、多くの大手製薬企業の工場が県内に進出し、地場企業と進出企業、配置業者を含めて社団法人滋賀県薬業協会が昭和46年に設立されました。
また、製薬技術の発展のため、昭和34年に設置された「滋賀県薬事指導所」が平成15年に「滋賀県薬業技術振興センター」に改編され、医薬品製造業者とともにGMPによる製造管理・品質管理に取り組んでいます。